東北~大船渡、陸前高田、気仙沼、石巻~被災地を訪ねて
わが家は毎年夏休みに、キャンピングカーで旅に出ます。
土日仕事のため子供たちを連れて遊びに出る機会が少ないので、この夏休みのために500円玉貯金をして思いっきり遠出をするのです(^^;)
今回の東北旅行は、去年から私自身が震災後の被災地にどうしても足を運びたいという思いがあったのと、中学生と小学生の娘、幼稚園の息子にもいろんなことを感じて欲しかったからです。
津波に耐えて残った陸前高田市の「奇跡の一本松」
私は20代後半は海外ボランティアに明け暮れていました。治安や貧富の差もそれほど問題ない国でも、政治的課題や人種差別、文化水準の問題を抱えていたり、手を差し伸べられることはたくさんありました。必要なものを日本から送ってもらい現地で手渡ししたり、日本文化との交流の場も作ってきました。実際に足を運んでみないとわからないことを実感している私は、被災地を訪問したいという思いは去年からずっとあったのですが、独り身ではないためなかなか足を運ぶ機会がありませんでした。
「今年の夏は、被災地に行ってみようよ」家族でそんな話をしていたとき、8月はじめに開催された「佐久オイスカ子供の森」に参加しないかと声をかけていただきました。今年は佐久でチャリティライブを開催し被災地支援を行った「Songs to Dreams Project」さんの協力で、佐久市の友好都市である大船渡市から十数人の子供をこのオイスカ子供の森イベントに招待していました。そこにホストファミリーとして参加したきっかけで、大船渡に住むSちゃんご一家とお知り合いになりました(^0^)
長野県佐久市から栃木県(日光)→福島県(裏磐梯山)→岩手県(盛岡)を観光しながら北上し、大船渡、陸前高田、気仙沼、石巻など海岸線を南下。仙台から長野県佐久市へ戻ってきました。宿泊は、1泊だけ裏磐梯でお友達のペンションに泊まりましたが、ほとんど「温泉のある道の駅」です。家族5人+愛犬1匹、被災地を訪ねました。
陸前高田や気仙沼は、がれきの山や壊れた建物がまだまだたくさん残っていました。どの高さまで津波が押し寄せてきたかがわかり、愕然としました。建物の中は、「水の勢いでこんなにすべてが壊れてしまうのか」というくらいグチャグチャでした。
まだまだ、永遠と続くがれきの山。この問題は、早急に国が対応すべきだと思います。
遺族の方がお供えしたものでしょうか。もしかしたら、行方不明の方なのかもしれません。
橋ごと流され、土手は破壊されています。
鉄骨の骨組みだけ残り、基礎のみ残る住宅地。
折れた線路。
がんばれ!気仙沼!
石ノ森萬画館も被災していました。
なぎ倒されたガードレール。
オイスカ子供の森で、我が家にお泊りした大船渡のSちゃん。そのご一家を訪ねて行くことができたのは、この旅行での大きな出来事でした。
Sちゃんの家は、「下船渡」という駅の目の前でした。震災の日は、ここまで津波が来たそうです。
当日の写真をSちゃんのおじいちゃんから、たくさん見せていただきました。そして、その日の状況を子供たちにもたくさん話していただきました。
Sちゃんたちが通う小学校は、校庭まで津波が押し寄せてきましたが、誰も命を失うことはなかったそうです。秒速10mという速さで押し迫る津波から、走って逃げることは不可能です。津波を想定して、道路にはたくさんの「津波到達地点」の表示がありました。
今は静かな大船渡の海も、渦を巻いてすべてを飲み込んでいきました。未だ親戚の方も行方不明で、線路より海側の家はほとんど流されたそうです。
今は静かな海です。一日も早い復興を願います。
Sちゃんご一家。おじいちゃんおばあちゃんはとても穏やかな優しい方で、お父さんお母さんはお若い素敵な方でした。この夏の貴重な出会いをさせていただき、心から感謝しています。
1年半経った被災地を巡って、震災の凄まじさを痛感してきました。自然の怖さだけでなく、これから生きていく私たちは、どのようにして生きていかなければいけないかを考えさせられました。
いつどのような災害がまた起こるかもしれない。
そんな時、何が大切でしょう?
それは、震災後みんなが考えたであろう「絆」なんだと思います。
「人のつながり」
これは、これから子供たちやその先の世代まで受け継がれていくもの。思いやりを持ち、周りの人を幸せにする・・人のつながりなくしては、自分が幸せに生きていけないのです。
子供たちが、この体験を通して、そんなことを学んでくれればいいなぁと思いました。
(震災当日の写真;大和田 洋太郎 提供) 転載不可
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